昭和57年3月31日朝の御理解   出産の時よ・・・
                         入力者 大坪謙一

御理解第五十節・・・「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥えをせんでもひとりでにものができるようなものぞ」・・・・・・・。「とかく、信心は地を肥やせ」とあることは、えー「とかく、信心は心を肥やせ」ということだと思います。んーそれには、いよいよ地が肥えてくることのための修行を頂かなければならん。えー、合楽理念を持ってするということが、まぁ一番最高の地を肥やすことであり、根を肥やすことであり。いわいる、心をいよいよ、いやが上にも豊に大きくしていくことである。

ということは、皆さんも分かっておいでのことでしょうけれども、いよいよ、これが肥料になる。いよいよこれが、豊に大きゅうなるための根肥やしだというものを、粗末にする。ね、それではね、分かっておるだけで、合楽理念をもってする。心をいよいよ豊に、大きくするということが出来なくなって、いわば、地は痩せてしまい、いわいる、心は小そうなってくるということになるのじゃないでしょうか。おかげの受けものは、いつまでも小さいということになる。だから、もう本当に、あのぬけるというかね、徹して一切を心の、まぁいうなら根肥やしとさせてもらう生き方、修行、そこに頂くところの「一人でにものができるような」というおかげ。

昨日は、吉井の杉さんの所の杉カンゾウさん。元ここの総代をしておられました。そして、あのー、帰幽日でした。式年ということじゃありません。ですから、えー、杉さんとお孫さんと二人で参拝して見えて、で、まぁ生前杉さんの、いわいる、お好きであったようなものを、まぁ取り揃えて、四時の御祈念にあわせて、御霊にご挨拶をしてくれということでございましたから、昨日、四時の御祈念にあわせて、まぁ御祭りというわけじゃないですけれども、えー、そういうことがございましたが。神様にその杉家の御霊のことをお願いさせてもらっておりましたら、皆さんご承知でしょうか?私ども昔、今はあんな野菜はないごたるですけど、千本蕪と私どもは言いよりましたが、沢山こう生えるですよね。

根が小さいです。根は小さいけれども、上にこう葉がいっぱいこうしこる。あれなん、千本蕪っちいうでしょう?あの、ちょうど春菊の花のような、ね、私どもは千本蕪といよった。沢山、こう葉がしこるんです。いや、それこそ千本蕪というように沢山蕪がいっぱいこう、そして、根は小さいです。そのところを頂いて、結局杉家といえば、(?)工場というたら、もう日本でもいうすうの、あの、ねんですかね、えー、運動具の制作の工場ではもう日本でも指折りの大きい工場で、まぁそれに連なる杉家の方たちの場合はもう、それこそ、あのー、皆さんが、まぁいうならば金満家というわけでしょうね。

だからそんな、大変な財産家でありました。ですから、これは、例えばそれこそ、千本蕪のようにこう、しこっておるけれどもその根は小さいという。今は今度その杉工場が、まぁ昔のようにありませんでしょうけれども、えー、あとを継ぐ人が、その杉さんのところの二番目か三番目かの息子さんにどうでも、まぁやってくれ、本人も、まぁそんなら自分の勤めを止めてでもそれをしようといったような話し合いがあっておるそうですが、んー。それこそ、そういう家がありますよね。根はなくても上の方へいっぱいこうしこっておる。ですから、ここに本当の信心によって、えー、根の大きい御神願に、えー、まぁ杉さんは、婦人総代の杉清子さん、だから、その信心によって、今まで杉家にある、まぁいうなら家蔵財産とでも申しましょうか、その沢山の財産に大きな根が、●お知らせに大根を頂いたんです。

だからこれは、大きい根と書いてあるから、これに大きな根がついて、そして上に根があってそれに繁盛ということになった時に、まぁいうならば、親の代よりも子の代よりも孫の代というような、繁盛を見る事ができるでしょう。ね、だから、こりゃ杉さんあなたが信心をなさっておられるのだから、いよいよ、まぁ現在の杉さんのいうならば、あぁ形に現れておるおかげにそれに、ひってきするような根が生えるようないうなら、いよいよ心が大根である大きな根に豊に大きゅうなれる修行をさせてもらなきゃなりませんね。それには、今朝から頂く御理解なんかをおいて本気で頂くことですねというて、まぁ申しました。今朝というのは昨日の朝の御理解のこと。

ね、それこそ、えー三宝様踏むようなことのない、一切を神様のもう本当に御働きと分かり信じてどいうことであっても、それを「頂きます」という心。すべてのことに御の字をつけて頂く心。ね、いうならば、これはいやだ、これはそんになるからと向こうに押しやるようなことせずに、自分の前に流れ来たったものを本気で頂く。良しにつけ悪しにつけそれを頂こうという生き方。ね、それが、あー、まぁ合楽理念にはもうくどいように説くわけですね。いわいる、成り行きを尊ばしてもらうということである。ね、私は思うのです。成り行きを頂くというよりも、やはり神様の恩働きなのだからそれをありがたく尊んで頂けるようにならなければ、お徳にはならんと思うです。

二、三日前から今のビリグイの、ね、南米の末永先生ところのことを、んー、あれがないこれがない、まぁいろいろそういうことその不自由しておるということを親やら兄弟にまで、まぁ言うてやったということを私自身それを聞いて、「はぁそうじゃろう、あれも送ってやろう、これも送ってやろう」と思いよったけれども、そんなことではおかげにならんと思うたから私が、これは、送ってやってはいけんとこう腹は決めたもののやっぱり、えー子供四人も抱えてのことですし、まぁなれない都市にいってからのことですし、食べ物衣食住の上にも、まぁおかげを頂いておるというても、まぁ不自由まぁ魂魄をしておるならば、フッとこう思いが毎日やっぱりその思いを神様に送ってやれんからあちらで本当にそこんところを、まぁ夫婦のものが悟って、おかげをそれこそ限りないおかげを頂くことの信心ができることを願わせて、まぁ頂いておるんですけれども。

今朝も御祈念の中にそのことを願わせて頂いておりましたら、もう、櫛が、櫛ですね女の方が使う櫛です。あの、櫛がもうボロボロになってる。ね、それで、こうやって梳き流しよるけれど、髪が一つも奇麗にならんわけです。刃が欠けしもうとるから、▲髪ということはお互いの信心ということでしょう。▲櫛というのは、よく九死一生といったような、 なかには、苦労であり、もう死ぬほど辛いというよことの意味もありましょう。だから、そういう修行の時ほどです。まぁ今日の御理解でいうならば、いよいよ地を肥やし、いよいよ豊に大きくなっていけれる時を外して、さぁ人に頼り物に頼りしたらどうなりますか。

その櫛が、それこそボロボロに折れとるようなこと、だからここにそういう、いうなら、まぁ一般でいうならば、難儀とか苦しいとかということそのことの中に、どういう御神願があるのか、御神愛があるか分からせてもろうて、それを誰に頼る、彼に頼るのじゃない、神様一心にすがって、梳き流させて頂く絶好の機会にあるときなのだという、いうようなことを、頂いて改めて、また私はビリグイのことについちゃ「こりゃ送っちゃやってならん」と思うてね(笑い)腹を決めておるようなしだいでございますがね。お互いの上にもそうです。難儀だから、苦しいからということで、それをなら、あれに頼り、これに頼り、いわいる「金の突けば曲がる、木や竹は折れる」とおっしゃるように、神の一心に杖にさせてもろうての信心にさせてもらう。そういうことが、いよいよ心が豊かに大きゅうなることだと思うです。

ね、私は、合楽にご縁頂いたらここのところを一つ徹底して頂けれる信心になってくる時です。それこそ、一人でにものができるようなというおかげでなからんと、例えば、杉さん例を申しましたが、なるほどやり方が良い、時代の波に乗った。というような時にね、いうなら大財閥なんかというのはそういうものです。ね、時代の、何か波に乗るのです。
まぁ負がよかったです。ね、ですから、それが長者三代無しといったよう結果になるのですから、ね、杉さんの所の場合は、それがたまたま主人がここの総代をし、いうなら、亡くなられてからも、奥さんが婦人総代としておかげ頂いておる。

だから、このただおかげを頂くという信心じゃなくて、いよいよ大根、大きな根、いうなら大きな心。豊な大きな心になることのための修行をこれから一つ本気でさせて頂くことによって、先祖が残した大きな財産にその裏付けのできるようなおかげを頂く時にです。
ね、いよいよそれを、また、繁盛にも導いていくことができるということになるのですよね・・・。昨日、石田先生から、また、あのー、お葉書が二枚参りました。もう本当に素晴らしいことが書いてあります。そして、もうやっぱ本当に宗教もいろいろ本気で勉強したり、また学問をしなければこういう文章には書けない。というて、まぁみんなで研修の時に、まぁ頂いたことでした。

それで私が、その一枚を読んでもらって、この一枚の、この葉書の中から先生が書いておられることの中のどこを一番みんなが感じたかと私が言うんです・・・。みんなに聞きました。ちょっと、誰かつきたしてなからんと読みきらんもんこりゃなかなか。それで今度先生が帰られたら、あのー合楽だよりに「苦茶、無茶」というらんがありましょう。
ありゃ「苦茶、無茶」というのは、無茶苦茶という意味じゃないですもんね。みなさんどげな風に思うとるなさるですか。あれは苦茶無茶です。ね、これはね、んー、これはあるお茶の達人の方が、あのー、んー、修行にでるというか托鉢にこうでられるお坊さんですがね。そして、托鉢から帰って見えた時にちょうどお客さんがあっておった。 

そのお坊さんがその自分が托鉢に回る、ありゃなんていうんでしょうか丼のような、あれで自分の手も洗い、顔も洗いして、そしてそれを奇麗に、こう洗われてその托鉢にまわられるおわんで今度お茶を点てて出されたというんです。ね、これがもし普通のものが顔洗うたり、手洗うたりしたら(笑い)しかも托鉢の丼をですよ。ね、またそれを洗うてからお茶を点てて出されたと。そこに全然汚さとかうらめしさというものは感じなくて、良いお茶の本当の精神をそこからお客さんが感じとったと言う話しがあります。だから、これが本当の「苦茶無茶」です。お茶の道というものはもう十分に心得てあるのです。

ね、けれどもそのお茶の達人の人がそれを使われると汚いものも、ね、うらめしさも感じさせないで、ね、素晴らしいお茶としてお客さんに味合わせて、味合わせることができる。これが普通のものが、もうそげなこつしたらとても飲むごつもない。無茶苦茶だから。
ところが苦茶というのはそのお茶の道で苦労をしておる、修行をしれおる。そして無茶なことをする。これは信心にもいえることなんです。これはある商人様が、ね、まぁ確か(?)商人だったと思うですね。(ご信者?)さんの家のご法事にいかれた。ところがやはり( ? )様なかなか開けたお方ですから、奥さんでも持たれるくらいですから、あのお魚がでた。

それで付いて行っておるそのお坊さんも一緒にね、本当に、まぁ当時の新たなそれこそ、おー進行宗教。当時の進行宗教でしょうかね。(?)様の生き方はそれこそ人間が人間らしゅう生きる手立てと、合楽で言われるようなものなんですが、ね、だから本当にお坊さんなんかは(生臭いから?)とらないのだけれども商人様の教えでいくと(  ?  )をとってもいいのだ。というて商人様が召し上がったからというてお弟子さんもそんな気持ちで頂いたというのです。だからそのまま、もう破門になったという、まぁ誰か商人様だったと思いますがね。ね、だから第一その(笑い)商人様とその弟子さんの内容が違う。師匠が( ? )を食べたからというて弟子まで( ? )を一緒に食べたんではいかん。

ね、もうそれこそ苦茶のとこおを通って無茶なのですから、まぁそういう意味でありゃまぁちょっと余談になりあしたけれども「苦茶無茶」のらんが合楽にありますが、ね、あの「苦茶無茶」のらんに今度石田先生が帰って見たら毎月あそこに、まぁ(  ?  )というか、まぁそういう風なものを書いてもらおうというてお話をしたことでございますが。これ読ませて頂く、これも、もう本当に苦茶無茶のらんにもってこいのような感じの内容ですから、まぁ聞いて下さい。そして皆さん私が家の修行生の先生方に「これを皆さんどこを一番感じたか」というこですから皆さんが感じたところを一つ自分で思うて見て下さい。どうぞ(正教先生に本を読んでもらう)

ままよとは死んでもままよということである。ははくれ武士道とは死ぬこととみつけたり。これは(?)の為宮本武蔵ごりんの書「我に死なし」これは傲慢である。人は皆神により人により教えられ、救われている。例え特定の(?)とも立会いの相手にさえ教わっている。平重盛「ちゅうならんとうすれば、こうならず。こうならんとすれば、ちゅならず」(光明?)いわく、「ちゅうとは神にちゅうなることをいう」

初代・・・光明というのはご自身のことなんです。自分の(?)の名前が光明。

正教・・・光明いわく「ちゅうとは、神にちゅうなることをいう」神とは当然合楽の御理念にとかれる神。現人神にあらず、生神である。生神とは神がここに生まれるこの方がおかげの受け始めじゃ。

初代・・・どうですかみなさん。どこを一番感じられましたでしょうか。例えば現人神と生神をこういいわけておられるところなんかは見事ですね。ね、宮本武蔵のごりんの書をとかれたり、ね、はがくれを説かれたりそして合楽の信心をピシッとこう表現しておられですね。今のこれを聞かれて皆さんどこが一番、皆さんが感じられたことを一つ後で思うて、私は、これにどを感じたかというとね、最後のところにね、御理念によると書いてありますね、私はもう初めて聞いたです。もう、今まで、今から私は合楽理念というから皆がその、「合楽、合楽のことばっかり」いう。

昨日も熊本の大学生が、日本国中の大学生が集まって、あのー、信心共励があっておるです。その中の一人がとにかく大阪の玉水の出屋しろといっておられましたが、学生さんが一人やってきました。それで合楽に行くっちいうたら「もうお前は、金光教じゃないぞ、合楽教ぞ」と。大体いつも学生会にはここにも通知がよったけれどもそんなことでここには通知がこなかったらしいんです。「あそこはもう合楽教ぞ」それで、もう合楽の先生という人は、生神金光大神の教えを実際に行じてあのご比例を打ち立てられておるという話しだから僕は行くというて、まぁ昨日ここによったんです。ちょうど私が下がろうとする時に、まぁやって参りましたから、まぁしばらくお話をしたことでしたがね。

えー、ですから私が合楽、合楽をいうから、まぁ合楽は合楽ばっかりをいうというのは、まぁ悪評なもとにもなっておるような感じですけれども、この石田先生のこの表現を聞いてです。皆さんがどうでしょう。合楽理念といわずに、ね、御理念。もう何々は御理念をもってする他はないというふうにして頂かれたら、御というのは、御(おん)理念とかいてあるんです。私は石田先生がおかげを受けられるということはそこだと思うですね。
皆さんどうでしょうか、合楽理念はいうたけれども、それに御(おん)の字を付けて御理念・・・。

でして最後にもう一枚の(?)もいってありますが、ね、お取次ぎを頂くというても遠く離れておったり、家であれもこれもという訳にはいかんけれども、御理念を持ってする他はない。いやその時に土(どろ)の心をもってする他はないと書いてあります。素晴らしいでしょう。ね、「はぁーこりゃどうしようか」と思うような時に電話かけてからお取次ぎを頂くというのじゃなくて、そういう、いうならばあれもこれもお取次ぎ頂くわけにはいかんけれども、ここは、御理念をもって頂くのだと。ここは土(どろ)の心をもって頂くということが、お取次ぎを頂く以上のお取次ぎだと私は思いますね。

私がこの葉書の中から一番感じたのは、ね、先生が合楽理念をもってする他なしと言わずに、御理念をもってする他はない。といっておられるところに一番感じました。皆さんどうだったでしょうか。ね、御(おん)の字を付けずにはおれない、いうなら人間の最高の助かりの理念であるということをです。御の字が付けられるようにどんな時でも土の心で、どんな時であってもそこをもう土の心で頂こうと決めたらお取次ぎを頂く必要はないです。
ん。そういう生きかたこそ、まぁ今日の、まぁ御理解を申しますならばです。「とかく信心は地を肥やせ」とかく信心は根を肥やせ、心を肥やせと。その根を肥やす、心を肥やしいよいよ豊に大きくして行く為には、ね、独りでにものができるというても、一端よりも二端、二端よりも五端も一町もう広さを頂いた方が沢山収穫があるでしゅう。

ですからいよいよ限りなく豊に大きくして行く為の手段、手立て。本当にここで、大きな受け物を作らせて下さろうとする働きをです。ね、それこそ、それは苦しいことでもあろう、死に匹敵するような難儀なことであるかも分からないけれども。その櫛を持って自分の信心をいよいよきれいに梳き流していくという行き方を身に付けなければ、その櫛をボロボロに刃のかけたものであってはね(笑い)せっかくのいうならば、髪も梳き上げることもできない、ゆり上げることもできない。それこそ最高の肥料であると思われる肥料を向こうに押しやってしまうならば、いつまでたっても同道周りであり、豊にも大きくもなれない。

大根になれない。大きな根になれない。大きなおかげを頂きたいと思うならいよいよ限りなく豊な大きな心を目指さなければならん。目指すためには、それこそ御理念をもってする他はないということになるのじゃないでしょうかね。どうぞ・・・。